哲人のパラドックス:嫌われる勇気を読んで。
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今日は最近はやりの「嫌われる勇気」を筆者も読んでまた別の角度から突っ込んでみたい思いました。
嫌われる勇気って?
すみません、いきなり紹介かよ?
てなったかたもいらっしゃるかと。
簡単に説明すると、哲人と云うアドラー心理学に詳しい先生と一人の青年が議論する中で、アドラーの教えが紹介されていく本です。
対話形式なので心理学の教本とは一線離れて読みやすい内容になってます。
いやはや内容のネタバレを避けたいので、以下は本を読んだ方に見てほしいと思います(^^)
もしネタバレいいよという方は自己責任で以降宜しくお願い致します。
嫌われる勇気を読んで
今回は非常にシンプルな読んだ感想書いてきます。
思ったのは
アドラー心理学ではすべての悩みは人間関係にある。
や、
自分を嫌いになるのはある目的を達成するため必要な個人の「善だ」と言ってます。
これを対談形式で哲学者の哲人の口からでてきています。
一つ思いました。
哲人のパラドックス
哲人もまんまとハマってね?
「アドラー心理学が正しい」と確信する
という目的のために、
フロイトやその考えは間違っている
と批判して優越のコンプレックスを求めている。
これ、裏をとれば
「アドラーって正しくないけど、正しくするという目的のために他の哲学を否定する」
または、
「アドラーが間違っていたら、自分の人生も否定しかねない、自分が培ってきた詭弁法が全くの無用の産物になりかねない。」
そのためにアドラーがあたかも悩みの根本について逆転の発想を強いるような、また「完璧ではない」とあえてその不十分さを与えつつも、
世俗がもっとも惹きつけられるような言い回しで踊らされているだけではないだろうか。
てことなんではないのでしょうか?
100%パラドックス
哲学者でもなく、数学者でもない。
そんな筆者ですが一つこの本を読んで疑問に思いました。
どんな対になりそうな事象も跳ね除ける絶対的な理論は存在するのでしょうか。
筆者はそんなものないと思います。
どんなものにも対になる事象はあると思います。
神は絶対だと、言われても
誰が神なんだ、誰が神を見たんだ。
数学でも、
三角形の面積は
底辺×高さの半分
と決まっているが、それは我々の生きる世界と常識内だけのことではないか?
我々を超越した世界、または知らぬ世界の中ではこんな定義など全て覆されてしまうのではないだろうか?
ちなみに筆者のこの意見も対になる意見がたくさんあるはず。
100%パラドックスがあるという考えにも対はある。
つまり理論や議論に終わりなんてないかもしれません。
最後に
みなさん、こんな記事で混乱させてしまいましたら申し訳ありませんでした。
しかし、本を読んでその内容について指摘ができるのは読書の一つの楽しみなんだなと思いました。
就職するまで本など全く読んできませんでしたが、今ならいろいろ無い脳みそを少しでも使えることができてやりがいを感じます。
皆さんの考えもお聞かせいただければ幸いです。
今後も書籍、マンガのレビュー続けていこう思いますので宜しくお願いします。
ではでは
Kitarou